Hiroyoshi Yamazaki Photographs

DIARY  母と庭の肖像                        山崎 弘義

  今日の母は無表情だった。庭に出てみるとムラサキハナナが一気に咲き始めている。
日々の移ろいを感じる瞬間だ。認知症の母と自宅の庭を3 年間、ほぼ毎日、日記的に撮影。期間は2001年9 月4日から、母が亡くなった2004年10月26日まで。撮影した枚数は、3600枚を越えた。

  母は1999年頃から物忘れがひどく徘徊や情緒不安などの問題行動が増えてきた。一人っ子の私は母を介護することに。 幸い昼間はヘルパーさんに看てもらい、夜と週末は私と妻が介護した。 母の状態は時として穏やかな笑顔を見せたり、あるいは問題行動を起こしたり。いつしか私の名前も忘れがちになったが、そんな母が見せた表情が写真の中にある。
  母を撮影した後に、庭の一角を撮影。死に向かう母と四季折々の表情を見せる植物達。母を介護するようになってから、不思議と植物たちの息吹が気になるようになった。命の二つの有様を定点観測として浮かび上がらせようと思った。

  1998年のお正月のことだった。 純子様の実家でおせちを御馳走になって帰る段になり、母が発した言葉が「皆さん、よいお年を」。これはほんの言い間違いだったかもしれない。しかし明らかな予兆であったように思える。前々から忘れっぽいという訴えがあり、近くの精神科を受診したこともあったが、生活する上で支障はなかった。専門の医師にも軽度の認知症なのか、老人性うつなのか判断はできない様子だった。母は頭の中から何かが抜けていく感覚を持っていたのだろうか、この頃いろいろなところにメモを書いていた。しかしノートの場所がわからなくなり、さらに新しいノートを買ってくることが多かったのだが。
 
  翌年、秋風が吹きだしたころから、夜の徘徊が始まった。「足が弱っちゃうと困るから」と午後9 時ころから、家の周りを散歩するようになった。そのまま行方不明になっては困るので後をついて回ることになる。おおよそ週2 〜 3回、夜の散歩が続いた。手から血をだらだら垂らしながら帰ってきたことがあった。家の前の有刺鉄線を?んでしまったようだ。家族としては大変な負担だったが、幸い精神科から出された薬を服用するようになって、ぱったりと止んでくれた。

  母を介護することになってから、外に出ることすらままならなくなった。そんな時、一番身近な母を撮りたいという思いが心の中にあった。しかし、どのカメラを使うか、どんな構図で撮るか等の撮影手法がなかなか決まらず実行に移せなかった。中判カメラのマミヤ7 を購入したが、寄りが足りなくてポートレート向きではなかった。そこで以前から路上スナップで使ってきたフジGA645Zi で撮影したら、意外としっくり。最短撮影距離でバストショットが撮れて、しかも自動焦点なので楽にシャッターを押せた。

  そして2001年9 月4 日から撮影を始めた。撮影はいつも朝に行ったが、それは朝だと母の頭がすっきりしていて、私の指示をよく聞いてくれたからだ。夜はせん妄状態になることが多く、一時もじっとしていてくれず、または寝込んでしまうことが多かった。朝6 時に母を起こすと着替え、朝食、そして薬を飲ます。薬は6 錠程度。入れ歯と歯茎の間に挟まってしまうと、吐き出してしまう。しっかり飲み込んだかを確認する。特に高血圧の薬を飲んでいないと、午後になって血圧がいっきに上昇するので注意を要する。薬を飲ませて一息ついたら撮影に取り掛かる。馴れた作業なので10分もあれば完了。母は拒絶することもなく、大人しくカメラに納まってくれる。その際に、いつも聞いていたことがある。

  「名前なんて言うの?」
  「誕生日は?」
  「お父さんの名前は?」
  「お父さんはどうしたの?」
  「お父さんはどこ勤めてたの?」
  とにかく毎日聞き続けることにより、その記憶が母の中から消えないことを願った。
 
  なぜ9 月4 日から撮影を始めたのか? その日は、ある運命が訪れた日だったからだ。
1990年9 月4 日、午前9 時25分。仕事中の私のもとに母から、父が上田市で倒れたという一報が入った。容体は悪く、早く病院に行かねばならないという。重篤な脳梗塞、医師からは1週間が山場と告げられた。幸い、一命は取り留めたものの、寝返りも打てない寝たきり状態となった。小柄な母は70kg 近くあった父を懸命に約6 年間介護してきた。数年後に母が認知症になったとき、私には施設入所という選択肢はなかった。それは父を介護している母の姿を見ていたからに他ならない。ベッドから車いすへの移乗に失敗し、助けてくれと母から何度も電話があった。また週1 回、老人保健施設のデイケアに通っていたとき、送迎は私がしていたが、午後4 時半に迎えに行くと、窓際で私の出迎えを待っていた父と母の姿が今も脳裏に焼き付いている。
 
  そんな記憶があるとはいえ、介護は日々、ストレスの連続となった。
人は我慢汁を入れる容器を持っている。人によってその容器が試験管くらいの小さな容器だったり、またはバケツのように大きかったりする。ちょっとしたストレスがあると我慢汁が一滴一滴溜まっていく。日によって容器が空のときもあるし、すでに容器一杯に汁が溜まっているときもある。そして容器から我慢汁が溢れ出た時、人は爆発する。私の我慢汁の容器は、人に比べて大きなほうだと自負しているが、母を介護していた6 年間は時として我慢汁が溢れるときがあった。それは認知症特有の所作によるせい。それは病のなせる業とはわかっていても我慢汁がジワーッと、あるいは洪水のように容器に溜り、容器から溢れてしまう。

   母がかつての母でなくなっていく様は、やはり悲しくやりきれない。毎日の撮影という表現行為により、私自身の地平線を確認し、介護することの葛藤から、心の安定を図ろうとしていたのかもしれない。そして、シャッターを押した瞬間、この時はいつまで続くのか、と自問自答していた。今日が最後になるのか。それは明日かもしれないし、数年後かもしれない。

  ただ 今 このときが かけがえのない時だという認識が確かにあった。

   母 いく 2004年10月26日 86歳の天命を全うする。
   別れ、そして生からの解放。