「静謐と渾身の間」 荻野アンナ (作家・慶應義塾大学文学部教授)
認知症は実存の病気だ。人は経験値に支えられている。その支えが、ある日、音もなく崩れる。
うちの場合は2年半前に遡る。日が落ちたとたん、母親から電話がくる。
「今、朝か夜か」
状況を掴めずに闇と対峙している恐怖が、声から伝わってくる。聞いたこちらも床が抜けて際限もなく墜ちていく感じがした。
認知症は直前の記憶を好んで蝕む。昼を忘れてしまえば、昼に夜が続かなくなる。しかし朝、昼、晩を分けるのは人間の発想で、大地には本来、光と闇しかない。そんな原初の世界にひとり向き合い、患者は過去と繋がらないちぐはぐな現在を渾身で生きる。
渾身という言葉が「DIARY」には相応しい。認知症の母親と庭の一隅をセットにして、日々撮り重ねたものが一冊になってみると、静謐にして渾身、という不思議な作品が成立した。
渾身の状態にあるのは、まず、モデルの山崎いくさんである。カメラが捉えた表情は多彩で、無心の笑顔や照れ笑いもあるが、失意、懐疑、悲哀、自失。時には鷹の鋭い目をしている。鷹の目で見つめられた写真家=息子は内心のけ反ったはずで、私にも母親の視線を受け止めかねる瞬間がある。
老いが身体の自由を奪うのに従って、命の炎を掻きたてるようにして、持てる人間性のすべてを自分の顔に託す。ポーズを取る余裕もなく曝け出された被写体の真実を、カメラは淡々と追っていく。
写真家の仕事にブレはないが、息子としての山崎弘義さんがギリギリの生活であったことは、添えられた短い日記の言葉に明らかだ。例えば「ティッシュを食べようとする」のひと言。便失禁の後始末で「便が徐々に崩れて水に溶けていく」というリアリズム。
穏やかな母、そして庭には一輪のチューリップ。牧歌的と思えるページに「体のだるさが取れず、仕事に行く気がしない」の一行が隠れている。仕事に疲れた夜には、母の介護が待っている。
山崎さん本人から聞いた話だが、徘徊が始まった頃、近所の同じ家を1日に何度となく訪ねることがあった。家に上がり込んで、黙然と座っている。帰ったと思うと、また来る。相手はさぞや迷惑だったはず、と山崎さんは苦笑する。快活で饒舌だった母が、言葉もなく座っている姿を思うと、胸が痛んだ。
山崎さんのそれまでの被写体は東京の街角だった。介護で身動きが取れなくなり、写真家としていったん破綻して、改めて眺めたわが家に母がいた。母が自分を家に縛り付けてくれたおかげで、移ろいゆく庭の情景に目が行くようになった。季節の中でも、草木は1日ごとに装いを新たにする。母の体調もまた。
時間を生きる同じ生命体として、母と植物を対峙させる手法がこうして完成した。双方とも、今この瞬間を必死で受け止めている。植物に必死という形容は似合わないが、実態は異なる。そう教えてくれたのは藤の専門家で、開花期は「連日、全力疾走をしているようなもの」だという。
母と庭は、山崎さんという伴走者を得て、3年2ヶ月のマラソンを完走した。その記録は、個に徹することで普遍となり、閉ざされることで開かれている。私も心が疲れたら、いくさんの庭を、ふらりと訪れることにしよう。